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観察映画についての覚え書き

想田和弘

(初出:「文学界」2009年10月号)

 「観察映画」シリーズと銘打って、自民党による選挙運動の内幕を描いたドキュメンタリー映画『選挙』(観察映画第一弾、二〇〇七年)と、岡山市にある精神科診療所で繰り広げられる世界を描いた『精神』(同・第二弾、二〇〇八年)を公開した。そして今、劇作家・演出家の平田オリザ氏と青年団の世界を描く『演劇(仮題)』(同・第三弾、二〇一一年公開予定)を製作中である。

 では、観察映画とはいったい何なのか。表面的には、ナレーションやテロップによる説明、BGM等がない、シンプルなスタイルのドキュメンタリー映画であると特徴付けられるだろう。その源流は、アメリカで六十年代に勃興したダイレクト・シネマにある。

 しかし観察映画は、単なる表現形態にはとどまらない。それは、ドキュメンタリー映画を作るために、僕が試行錯誤で実践しつつある発展途上の方法論である。同時に、先入観や固定概念を排して「よく観る」ためのメソッド、世界や自己、他者への向き合い方であり、そういう意味では生き方や思想の領域ともオーバーラップする部分がある。

 以下に、観察映画の特徴を覚え書き風に述べながら、その本質について考えていく。

 

(一)事前準備は最小限

 

 観察映画の方法論的な特徴として、撮影前にリサーチや勉強、被写体との打ち合わせをせず、構成台本を書かないことが、まず挙げられる。

 大抵のドキュメンタリストは、まずは作品の対象となる題材について徹底的にリサーチし、被写体候補をリストアップして、撮影前の面談を行う(僕もテレビ・ドキュメンタリー番組を作っていたときにはそうしていた)。その過程で、どんな集団や個人がこの世に存在して、どんな動きがあるのか、そして何が撮れて何が撮れないのかを把握し、作品の青写真となる構成台本を書き上げていく。

 台本には、細かいシーンの構成やショット・リスト、誰がどこでどんなことをインタビューで喋るか、そしてナレーションの案まで、詳細に書き込んでいく。同時に、作品のテーマを設定し、それが鮮明になるよう構成を練り上げ、「落とし所」と呼ばれるエンディングも決める。それで初めて、出資者やプロデューサーからゴーサインが出て、撮影に出る。

 当然、撮影や編集は台本に沿って行われる。周到に用意した青写真から、完成した作品が大きく逸脱することはない。いや、逸脱しないことが、作り手の力量であると考えられている。

 しかし、このようなプロセスを踏むと、知識やプランが先入観や固定観念となって、目の前の現実を「よく観る」ことが難しくなる。撮る側はどうしても自分で書いた台本に縛られ、台本に合致しないことにはカメラを向けようとしなくなってしまうからである。

 また、事前調査で知った知識をなぞるように撮影をするので、そこで今起きていることをリアルタイムで撮影するというよりも、既に分かっていることを解説・再現するための映像、構成に従属する説明的な映像を撮ってしまいがちになる。僕自身も、台本に書いたナレーションを頭の中で反芻しながら、それに合う絵を撮ろうとしてしまった経験がある。

 すると、作品は予定調和に陥ってしまう。作品を作りながら発見がしにくくなる。

 観察映画は、そのような事態を避けるため、事前の準備を最小限にとどめる。そして、撮影前に作り手が抱いていたイメージや概念、思い込みが壊されれば壊される程、作品は輝きを増すと考える。

 

(二)撮影では「球をよく観る」

 

 撮影現場では、可能な限り行き当たりばったりでカメラを回す。その時、「このシーンはこう使おう」とか、「このシーンのテーマはこうだ」などと考えないようにする。考えそうになったら、人工的にその思考をぶった切る。

 ぶった切るための最良の方法は、目の前で起きていることをじっくりと観察し、出来事や時間の流れ、空間をカメラで捉えることに、集中することである。要するに、素材をどう使うかという「未来」のことを考えるのではなく、「現在」に意識を下ろしていく。そういう意味では、瞑想に似ている。

 目の前の生きた現実は、予測がつかない方向に展開していく。それを捉えていくという意味では、野球の打者に似ている。打者は、投手が投げる球を予測しすぎても、全く予測しなくても、バットでうまく捉えられない。予想しながらも、予想外の球に対して身体を開いておかなければならない。そこで結局一番肝心なのは、「球をよく観る」ことである。撮影でも、全く同じことがいえる。被写体やその周りをよく観て、カメラを回す。

 その際、そもそもバットがうまく振れなければ、ヒットは打てない。普段からスイング=撮影技術を磨いておくことが肝心である。また、長時間の撮影に耐えうる体力も不可欠。

 

(三)撮影は少人数で行う

 

 プランなしのぶっつけ本番でカメラを回すので、撮影隊の人数は少なければ少ない程、臨機応変に小回りが効き、望ましい。僕の場合、基本的には自分でカメラを回し、録音もする。

 

(四)世界の構造をつかむ


 撮影は、「広く浅く」ではなく、「狭く深く」を心がける。

 例えば選挙戦を撮影するなら、各候補の陣営を広く浅く取材するのがスタンダードな取材方法である。また、精神医療を題材にするなら、様々なタイプの病院や診療所、専門家などを取材するのが定石であろう。その方が選挙戦や精神医療全体を俯瞰できた気になれるし、客観性という幻想が得られるからである。

 もちろん、様々な場所や個人に取材した方が作品にとってよい場合もある。だから、一概に「広く浅い」ことを否定するわけではない。

 観察映画が否定するのは、アリバイ的に行われる広く浅い取材や、客観主義である。

 『選挙』では、「自民党候補・山内和彦の選挙運動」に張り付き、その世界を狭く深く掘り下げることによって何が見えるか、を追求した。また、『精神』では「こらーる岡山」という小さな診療所とその周辺にカメラを向け、そこから広い世界を垣間みようとした。

 実際、世界は入れ子構造になっていて、狭い世界に広い世界の構造が縮図のごとく詰まっている場合が多い。観察映画では、そのエッセンスを抽出することに腐心する。

 

(五)編集でもテーマを設定しない

 

 編集作業では、撮影時と同様、予めテーマを設定しない。先にテーマを定めてしまうと、それに合うことばかりを映像素材からつまみ食いしてしまい、テーマに合わない現実の複雑な部分がこぼれ落ちてしまうからである。

 例えば、「こらーる岡山診療所の献身的なスタッフ」というテーマを設定した上で、編集作業をしたとする。すると、献身的な様子に見える映像ばかりを、撮れた映像素材から集めてくることになる。当然、それらの映像は「何かのための」映像、道具としての映像になってしまい、テーマに従属してしまう。そのような映像の集積としての作品は、極度に単純化され、予定調和なものになってしまうだろう。

 それを避けるため、編集では最初はテーマについて考えることなく、とにかく撮れた映像素材を何度も観察しながら、自分にとって興味深い場面をピックアップし、場面ごとにシーンとして構築してみる。シーンがだいたい出揃ったら、それらをパズルのごとく順番を並べ替えたり、足りたり引いたりして、徐々に一本の作品としての血を通わせて行く。

 その過程で、一見無関係なシーンとシーンの間に有機的な関係を見出したりして、徐々に自分の視点やテーマを発見して行く。発見したら、それが鮮明になるように、更に編集の精度を上げて行く。同時に、映画として見応えがあるように、編集のリズムやドラマティックな構成を整えて行く。

 

(六)観察映画はガイド無しの旅

 

 冒頭でも触れた通り、観察映画では、ナレーション、テロップ、BGMを使わない。その一番の理由は、観客には、スクリーン上で起きていることを能動的に観察し、解釈して欲しいから。その作業を、余計な情報を与えることで邪魔したくないのである。

 ナレーション等を駆使するドキュメンタリーは、旅で言えばガイド付きの観光に似ている。ガイドに導かれて観光をすると、道に迷うことなく、観るべき名所を短時間で過不足なく回れるし、各所では解説を聞きながら見学できるので、勉強になることも多い。しかし僕の経験では、ガイドに頼れば頼る程、旅人は受動的になり、自らの力で何かを観よう、体験しようという姿勢が薄れてしまう。また、そのようにして得た情報は、自分で主体的に取りに行ったものではなく、消費者として受け身で与えられたものなので、すぐに忘れてしまうことが多い。また、あまり自分自身の努力を伴わないので、旅自体も印象や記憶に残りにくい。

 逆に、ガイド無しで旅をすると、道に迷ったり失敗したり、効率はよくない。しかし、自分の頭で考えながら、試行錯誤を繰り返しながら進んでいくので、何年も経った後でも、よく覚えていることが多い。また、ありふれた狭い路地やら、風に揺れる洗濯物やら、電車で隣り合わせた親子のたわいもない会話やら、ある種消費材として用意された観光名所とは異なる、飾らぬ日常風景が目についたりもする。いわば、旅する人はそこで、受け身の消費者=観光客ではなく、能動的で主体的な旅人になるのである。

 観察映画の鑑賞は、ガイド無しの旅に似ている。観客は、目の前に広がる映画世界を、解説抜きで、自分自身の視点で、それぞれが感じ、解釈し、考えながら体験していかなければならない。

 

(七)観客に「観ること」を迫る

 

 観察映画は、観客に自分の目と耳でスクリーンをよく観察することを強いる映画である。

 多くのドキュメンタリーでは、新しい登場人物が現れるたびに、テロップで名前や肩書きを表示し、ナレーションでも懇切丁寧に解説してくれる。しかし、観察映画ではそのような「情報」や「説明」が作り手から与えられないので、観客は登場人物の動作や表情、話し方やその内容に注意を傾けざるを得ない。そして、観客それぞれの世界観や人間観、経験と照らし合わせながら、登場人物について知り、解釈していかなければならない。情報の欠落が、観客の観察眼を刺激し、作動させるとも言える。

 

(八)観察映画は観客を信頼する

 

 したがって、観察眼を使う労力を厭う人や、懇切丁寧に何でも噛み砕いて説明する離乳食のような映像を受け身で消費することに慣れ切っている人は、観察映画の入り口で門前払いされてしまうだろう。

 しかし、自分の意志で門をくぐった観客は、自らの顎と歯を使って映像を咀嚼し、消化することになる。そこでは、観客は受け身の消費者ではなく、能動的で主体的な鑑賞者として、映画の世界に接することが可能である。

 観察映画は、観客の注意力や咀嚼力、洞察力を信頼するのである。

 

(九)観客はバッター

 

 観察映画では、作り手がピッチャーなら、観客はキャッチャーではなく、バッターとして想定する。鑑賞者が自分の力でバットを振り、ボールを色々な方向に打ち返すことを期待する。換言するならば、作り手が観客へ一方的に何かを伝えるのではなく、両者が衝突し合う双方向のコミュニケーションを目指している。

 

(十)観察映画は「窓枠」を提示する

 

 観察映画の作り手が行うのは、世界を切り取る視座としての窓枠(=フレーム)を、観客に提示する作業である。

 窓枠の外にある世界は、観客には見えない。しかし、窓枠の中で起きていることは、自由に観察できる。

 ナレーションやテロップによる説明を付けることは、窓枠の中の風景に「ここを観ろ!」と矢印を付けたり、風景そのものに色を付けたりすることに当たる。それは、観客による自由な観察や洞察を妨げかねない。

 

(十一)観察映画は追体験の装置

 

 劇映画では、新しい登場人物が登場するたびに、その人の名前などをテロップでいちいち説明したりしない(テレビ・ドラマや、最近の劇映画ではときどきあるが)。ともすれば、主人公の名前を最後まで知らずに終わってしまう場合すらある。それでも、映画がよくできていれば、そんなことは一切気にならない。このことから分かるように、映画にとって、「情報」や「説明」など、本来は重要ではない。

 逆に大切なのは、「臨場感」や「疑似体験」。ハリウッドのアクション映画や恋愛映画に根強い人気があるのは、観客がヒーローや美男・美女になりきって、その人生をつかの間にせよ疑似体験できるからである。

 ハリウッド映画の疑似体験の多くは、観察や内省を伴わない、ジェットコースター型の体験であり、その点は観察映画とは根本的に異なる。しかし、映像や音声が臨場感を生むという原理を、ドキュメンタリーに活かせないはずがない。

 観察映画は、作り手の体験——『精神』なら、こらーる岡山という精神科診療所を訪れ色んな人々に出会った体験——を映像として再構築し、観客に追体験してもらうための装置である。もちろん、体験をどう解釈し、何を感じるのかは、観客にゆだねられている。

 

(十二)観察映画は報道ではない

 

 ドキュメンタリーの担い手は、これまで主にテレビ局であった。そのため、報道の延長線上としてドキュメンタリーを捉える見方が支配的である。したがって、NHKのドキュメンタリー番組に代表されるように、事実や情報を正確に伝え、説明するのがドキュメンタリーの役割であると考える人が多い。

 しかし、前項に記した通り、観察映画にとって情報を伝えることは本義ではない。そういう意味では、報道系のドキュメンタリーとは全く異なるジャンルに属する。

 だから、『選挙』や『精神』を観たとしても、観客は新しい知識を仕入れたり、お勉強できたりするわけではない。できたとしても、それは副次的な効果でしかない。そもそも、作り始めてから公開まで二、三年を要する観察映画にとって、情報で勝負するのはあまりにも不利である。

 逆に言うと、題材にニュース・バリューがあるかどうかは、観察映画にとっては重要ではない。実際、『選挙』で描いた川崎市議会の補欠選挙は、地元の新聞でもベタ記事で扱われるほど、ニュース・バリューには乏しかった。

 では、観察映画を観て得られるのは、何か。それは、自民党の選挙戦や精神科の世界にいきなり放り込まれたかのような感覚である。そこから学ぶものがあるとすれば、それは知識というよりも、体験と呼ぶべきものである。

 

(十三)観察映画は客観的真実を描かない

 

 報道系のドキュメンタリーとの違いは、他にもある。

 報道系ドキュメンタリーは、「客観・中立・公正」という旗印を掲げ、多角的な取材を通じて「客観的真実」を描けるとの前提で番組を作る場合が大半だが、観察映画はその立場をとらない。

 そもそも、ドキュメンタリーは、客観的真実を描くことが原理的に不可能である、と考えている。

 例えば、想田和弘の客観的真実を描くドキュメンタリーを撮るとする。客観的真実というからには、それは想田和弘の全てということになるのだろうが、そんなことが本当に可能だろうか。

 だいたい、いつからカメラを回し始めれば、想田の客観的真実を描けるのか?少なくとも、父と母の受精から撮らなくてはなるまい。いや、そこから何億年も遡らなければ、本当に僕のルーツも含めたすべてを撮ったことにはならない。しかも、二十四時間、ありとあらゆる角度からカメラを回さなければならない。いや、それでも僕の細胞のひとつひとつの中で起きていることは撮れまい。要するに、客観的真実を描くドキュメンタリーなど、人間には撮れるわけがないのである。

 

(十四)観察映画は体験記

 

 では、観察映画を含めたドキュメンタリーが何を描けるのかといえば、それは作り手が目にし、耳にし、体験した世界である。

 『精神』では、二〇〇五年の秋と二〇〇七年の夏、合計三〇日間くらいこらーる岡山診療所を訪れ、僕が目にした世界を描かせてもらった。ここで強調しておきたいのは、撮影の時期がずれていたら、僕は異なる人と出会って、結果的に異なる映画ができていただろう、ということである。

 出会いやタイミングに支配されるのが、ドキュメンタリーである。そういう意味では、いかに「客観・中立・公正」を標榜していたとしても、あらゆるドキュメンタリーは本質的に体験記なのである。

 作り手は客観性などを装うべきではないし、観る側も客観的真実など最初から期待せずに、作り手の個人的体験を作品にしたものであると、了解した上で観る必要がある。それはメディア・リテラシーの基本でもある。

 

(十五)観察映画は主観の産物

 

 観察映画は映像で表す体験記なのだから、当然、主観の産物である。そもそも、ある場面を撮る際に、どこにカメラを置いて、どんなフレーミングで切り取るのか。そして、いつ回して、いつ回さないのか。すべて主観で判断することである。あらゆる観察という行為には、観察する主体が前提とされるのである。

 編集室での作業も極めて主観的である。例えば、『選挙』は六十時間分の映像素材を二時間にまとめた。つまり五十八時間分は捨てた。何を捨て、何を捨てないのか、そしてそれをどのような順番で並べるのか。それらはすべて、主観的に決めて行く。

 ただし、前にも書いた通り、そのときに先にテーマや「描きたいこと」を設定し、それに映像を当てはめていくのではなく、何度も映像をよく観察し、耳を傾けながら、そこで得られた発見や驚き、体験を作品にしていくのが観察映画である。

 観察映画は、主観的でありながら、先入観や固定概念から自由であるための方法論である。

 

(十六)フィクションとの違い:その一

 

 観察映画を含めたドキュメンタリーは、作り手が世界を主観的な視座で切り取り、構成したものであり、作り物である。そういう意味では、フィクションとの境界線は曖昧である。

 しかし、それでもドキュメンタリーとフィクションの間には差があるし、差を突き詰めていったところにこそ、ドキュメンタリーならではの面白さが発揮される。

 例えば、劇映画は作り手の妄想を映像化したものだといえる。その妄想が豊かであれば豊かであるほど、作品は面白くなる。作り手の閉じた内的世界を掘り下げていったものが、劇映画といってもよい。

 ドキュメンタリーは逆に、自己にカメラを向けるセルフ・ドキュメンタリーを例外として、外側に広がる豊かな世界に対して、作り手の世界を開いていき、そのことで間接的に自己をも表現していく手法である。

 庭のアナロジーを使うならば、フィクションが箱庭であるのに対して、ドキュメンタリーは借景である。庭を一から百まで自分で作るのではなく、遠くの山河や森などを、フレームで切り取ることによって拝借し、自分の庭の一部にしてしまう。この広大な世界から、自分の目にとまった風景を借りてきて、それを観客と一緒に観るという行為こそが、ドキュメンタリーを作るということなのである。

 よい借景をするには、まずは風景をよく観なければならない。また、先にスケッチ(=構成台本)を描いてから、それに似た景色を探すよりも、まっさらの状態で直に風景に接した方が、作業の手順として自然である。それに、外に広がる山河に自分の都合で手を加えてしまうと(=ナレーションやテロップ)、興ざめを起こしてしまう。

 それは、作為を停止することによって、優れた作品を作ろうとする、そういう高度な作為である。予期もせぬ絶景や、奇跡的な偶然を呼び込んでいくための方法論であるとも言える。

 『選挙』や『精神』のラスト・シーンの展開は、シナリオに書こうと思っても、とても書けるものではない。書けるとしたら、その脚本家は天才である。そのような、人智を超えた現実の様相を、偶然に身をゆだねることによって作品に取り込んでいく装置こそが、ドキュメンタリーである。

 

(十七)フィクションとの違い:その二

 

 フィクションとはもう一つ、決定的な違いがある。それは、ドキュメンタリー作家は被写体のイメージを扱うがゆえに、それに対する責任が生じるということである。

 劇映画では、俳優がいくら残虐な役を演じたとしても、批判の矛先が俳優に向かうことはまずない。なぜなら、観客は俳優が「役」を演じているとの了解の上で、映画を観ているからである。

 ところが、ドキュメンタリーでは、いくらそれが作り手によって切り取られたものであるとはいえ、そこに映っているものが、現実に存在する人物や状況であることを前提にしている。したがって、賞賛や批判の矛先が、登場人物に向けられる。

 『選挙』で繰り広げられる、山内和彦とさゆり夫人の喧嘩が面白いのは、それが本当の夫婦喧嘩であるからである。あれが俳優の演じるフィクションだとしたら、恐らく面白さは半分以下になる。そういう意味では、ドキュメンタリーの魅力は、現実の人々の人生を切り取って作品にしてしまうという、残酷さと密接な関係がある。

 だからこそ、ドキュメンタリー作家は、被写体を傷つけ、加害者になり得ることを、覚悟する必要がある。同時に、被写体のイメージを預かることの責任を自覚し、可能な限りフェアに描く努力をしなければならない。

 

(十八)観察映画に「メッセージ」はない

 

 『選挙』や『精神』を観て、「作品のメッセージが分からなかった」と不満を漏らす人が、ときどきおられる。そこで「僕の映画にはメッセージはないので、分からなくて当然ですよ」と言うと、目を丸くしてビックリされる。

 ドキュメンタリーには「メッセージ=いいたいこと」があるはずだと信じている人は多いが、僕は観察映画にそれらは不要だと考えている。繰り返しになるが、観察映画は、作者の主観的な視点で世界を描写し、提示することに本義があるのであり、そこから何を感じるのかは観客次第である。

 メッセージのあるドキュメンタリーの代表的作家といえば、マイケル・ムーアであろう。『華氏911』は、「ブッシュ大統領は酷い」というメッセージを観客に訴えるために、映像と音楽とナレーションと特殊効果を総動員した映画である。あれを観て「ブッシュって凄いなあ」と思うツワモノ?はあまりいない。ある意味、観察映画とは真逆の作風である。

 断っておくが、僕は個人的には、ブッシュは史上最悪の大統領の一人だったと考えているので、ムーアのメッセージそのものには共感するところが多い。しかし、彼のメッセージ性を全面に出したドキュメンタリーの作り方には、様々な問題を感じている。

 まず、先にメッセージと結論ありきで、あらゆる映像や音声がそれに従属している。恐らく、ムーアは映画を作る前と作った後でブッシュ大統領に対する見方がほとんど変わっていないだろう。つまり、映画を作ることで発見したことは少ないだろうし、たぶん現実からあまり学んでいない。

 次に、ムーアの映画を観る者に、解釈の自由はほとんど与えられていない。観客は、ムーアが放つメッセージをひたすら受動的に受け取るばかりである。観客による主体的な観察や思考のプロセスが欠けているので、作り手のさじ加減ひとつで、「ブッシュは酷い」というメッセージは、「ブッシュは凄い」というメッセージに、客の頭の中で、カートリッジを入れ替えるように簡単にすり替わり得る。それは、洗脳に近い。

 それに対し、観察映画の鑑賞者が得る疑問や結論は、それが映画によって誘発されたものではあっても、観客それぞれが自分なりの観察と思考を経て辿り着いたものであり、作り手が注入したものではない。その証拠に、『選挙』を観た人の感想は千差万別で、自民党の選挙運動に批判的になる人もいれば、逆に肯定的な意見を持つ人もいる。『精神』でも同様であり、観察映画にメッセージがないことの、証左である。

 最後に、ムーアの映画の世界観は、あまりにも単純過ぎる。ブッシュを悪と決めつけることは、サダム・フセインを悪と決めつけることと同根である。決めつけるからこそ思考が停止し、ためらいが消え、殺し合いが可能になって戦争が起きるのではないか。

 

(十九)観察映画はグレーの濃淡を描く

 

 世界は複雑で常に変化している。善と悪、白と黒、正常と異常などに、簡単に色分けなどできない。また、白と思ったものでも、よくよく観れば薄いグレーであったりする。

 観察映画は、そのグレーの微妙な濃淡を、丹念に描こうとする。いや、よく観察すればするほど、思い込みや既成概念、単純化された図式が壊され、物事の灰色で多面的で複雑な様相に気づかざるを得ない。

 

(二十)観察映画は世界像の変容をもたらす

 

 観察映画は、ときに制作者や鑑賞者に対し、世界像の変容を迫る。

 例えば、多くの人は、いわゆる「健常者」と「精神障害者」の間には、明確な線引きができると、素朴に思い込んでいる。線引きすることによって、社会は精神障害者を病院に隔離し続けてきたし、人々はその措置に疑問を持たずに済んでいる。思い込みや偏見、常識は、既成の世界像や社会の在り方を安定させる機能を果たしているのである。

 ところが、精神科の世界をよくよく観察してみれば、両者は地続きに見える。少なくとも、明確な線引きなど不可能に見える。これまで受け入れていた世界像そのものが激しく揺らぐ。

 すると、これまで社会が精神障害者に対して講じてきた措置に対しても、疑問を持ち、見直さざるを得なくなる人も出てくる(もちろん、そうならない人もいる)。

 ここで注意すべきは、たとえそうなったとしても、それは作り手が「精神障害者に対する措置を見直すべき」というメッセージを放ち、それを観客が受け取った結果起きることではない、ということである。観客は、映画を通じて世界を観察することによって、ついうかうかと世界像の変容を経験し、その結果として、既成のシステムに対して見直そうという気になる。両者は、似ているようで全く異なるので、区別しておきたい。

 

(二十一)観察は理解・肯定への第一歩

 

 「観察」という言葉に、冷たい響きを感じる人がいる。観察者と被観察者は、ガラスか何かで隔てられていて、あくまでも冷徹な分析がなされ、観察者は一切傷つかないというイメージがあるのであろう。

 しかし、前項でも述べた通り、観察という行為は、必ずといってよい程、観察する側の「物事の見方=世界観」の変容を伴う。自らも安穏としていられなくなり、結果的に自分のことも観察するはめになる。

 例えば、蠅といえば、蠅ハタキで潰すべき憎き存在というのが一般に流布するイメージだが、目の前にとまっている蠅の様子を観察すると、実に繊細な手や足を持ち、身繕いをする姿は優雅で上品で美しくもある。蠅=悪と決めつけていた自分が恥ずかしくなる。

 あるいは、身体の周りをブーンと飛んでいる蚊。思わず潰そうとしてしまうけれども、よくよく観察してみると、食事をするのにも命がけであることが分かる。僕らがコンビニへおにぎりを買いに行くのとは、大違いである。そう思うと、安易に潰したり、殺虫剤を撒いたりできなくなる。

 逆に言うと、蠅や蚊は害虫であるという固定概念があるから、僕らはあまり深く考えずに殺すことができる。それは、広島や長崎に平然と原爆を落とすことができる心理と、全く一緒ではないか。

 「観察」の対義語は、「無関心」ではないかと、ある人が言った。僕は、なるほど、と同意する。

 観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は、僕が『精神』で実際に行ったように、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない。

 観察は、自己や他者の理解や肯定への第一歩になり得るのである。

***

 以上、「観察映画」について僕が考えるところを、思いつくままに述べてみた。

 僕らは言葉や概念によって、常に変化し流動し続ける世界の一部を切り取り、静止化・固定化しようと試みる。世界を理解しようとするためには、それは必要不可欠な営みである。

 しかし、動いているものを概念で固定する作業は、文字通り「固定観念」を生む。固定観念が生まれた当初は、その現実との乖離は最小限かもしれない。だが、現実は絶えず変化していくため、固定化された観念は必然的に取り残される。そして、現実との隔たりが次第に大きくなり、偏見に発展していく。

 観察することの意義は、固定観念や偏見を液状化し、世界像を更新することにある。

 観察映画は、まずは制作者がその作業を撮影と編集を媒介に行う。次に、観客が映画を観ることによって、同じ作業を行う。

 つまり、映画という装置を通じて、作り手も、観客も、自らの世界像を点検し、新たにすることが、観察映画の本義である。